幸せ

2022年05月28日

いつだったか、ずっと昔、

先輩が結婚したとき、

わたしはそれをまったく祝福できなかった。

幸せに痛いほど焦がれると同時に、

幸せというものが、どうしも嫌いでしかたなかった。

なぜって幸せは

排他的なものであるから。

しめだされた人間に残酷な仕打ちをする

汚らしい存在だとおもっていた。

いま、月日は流れ

どしゃぶりの雨をガラス越しに見ながら大きなビルのなかで

ゆったりと心地よく

パフェを食べアイスティを飲んでいた。

わたしも年をとったせいで、

幸せな瞬間というものがほんとうに訪れることがあるのだということを

味わうようになっていた。

余裕ができてはじめて他人にも

いくぶんか優しくなれるのだということを知った。

背の高いガラスの器の

真ん中にシャーベットと生クリーム、そのまわりを取り囲んでいるのがマスクメロン、

みずみずしい高級な果物。

手前の二きれはすでに皮がとりのぞいてあって、

奥の三きれには網目模様をお洒落にあしらった皮がついたままになっていた。

まず手前のメロンを食べた。

上品な甘さと豊かさの象徴のような潤い。

そこで真ん中の

シャーベットと生クリームをスプーンですくった。

甘い日々のなかではじめて

わたしを支えるものを守ろうとこころみると同時にまた、

その外側にいくぶんか目を向けるようになっていた。

あたたかな照明が

店を照らし、

きれいな床のうえにはねかえり、

ガラスの外はうってかわって

なぐりつける雨とそこから人々を守るための荘重で巨大な建物。

どこか立派に、どこかよそよそしく

重々しくそびえる大きな建造物。

わたしのいる建物もそういった建造物のひとつだ。

シャーベットの下にあった何きれものきれいにカットされたマスクメロンを

ひとつずつ。

幸せの味がした。

メロンはだんだん減っていって、

ついには透明なガラスの器は空になり、豊かな味の果物はそこにひとつも残らなくなった。

たしかにマスクメロンは余韻を残して消えていったが、

この世界も消費しつくされて

いつかは食べつくされたマスクメロンのように無くなって、

そのときにはもう余韻をのこすとは限らないのではないだろうか。

救いはどこにあるのだろう。

ほんとうの幸せとは、

限りあるマスクメロンのようなものではなく

広くひとびとのこころを満たすようなたぐいのものではないだろうか。

どこかに横たわるかもしれない

そして、どこにも見いだされないかもしれないもの。

たいせつなのはきっと、

けっしてこの生のなかでは触れることができない貴方のような存在なのだろう。