新緑

2023年04月01日

季節は巡り、

桜がまるで霞のように晴れやかな空を染め、

雨と、すっかり暖かくなった風と、

だんだん眩しさを増していく日差しとに育まれて

子どもが手を広げるように

楓の新しいみどりが

また今年もすこやかに芽生える。

庭の亀はすっかり目覚めて

暖かい日にはのそのそと動いて御馳走をおねだりするぐらいだ。

わたしにもまた春がやってきた。

ほんとうの愛と選ばれる幸せとを知って

若かった頃には考えもしなかった贅沢な時間を過ごすようになった。

記念日なのでケーキを買いにいく。

可憐な花をつけているスミレたちのもとから

アスファルトの道に出て

心地よい静かな通りをあるいていく。

ラブラドール・レトリバーを連れた奥さんに出会った。

その大きな犬と思わず目が合った。

奥さんがこんにちはという、

そこでわたしはその方が母の知り合いであることに気づく。

わたしはしゃがんで犬と向き合う、

黒くつぶらな瞳。

犬はわたしの懐にとびこんできて首筋のあたりに鼻面を寄せた。

わたしは犬の首っ玉にしがみついて

両腕に確かな温もりを心地よく感じていた。

やがて、犬は地面に伏せをして、わたしが頭に手をやると大人しく撫でられるままになっている。

砂の色のような、お日さまの匂いがしそうな綺麗な毛並み。

ちょっとの間そうしていたが、

奥さんと犬は去っていき、わたしはケーキ屋さんへの道をたどった。

小さなお宮にある桜の木はいまが満開、

お辞儀をして通りすぎる。

理容店の大きな金魚たちは水槽のなかでたゆたっている、

相変わらず元気そう、

金魚さん、と小さく声をかけて通りすぎる。

タンポポが街路樹の根もとに明るい色を放っている。

これらすべての恵みがいま、わたしのかたわらで優しく健やかに息づいている。

わたしの冬はとてつもなく長かったけれども

人生の春と本来なら呼ばれるべき時期をいたずらに過ごしたが、いまになって甘美な時を味わっている。

多くのわたしが慈しんだものたち、

そのものたちが少しでも長くわたしととどまってくれるように、また、

わたしが少しでも長くそのものたちと生きられるように、

そんな健やかな願いを生まれて初めて

いま感じている。

わたしを慈しんでくれた多くのものたち、

そのものたちにこれから、どうやって恩返しをしていけばよいのだろう、などと、

そういったことも漠然と考える。

洋風の、まだ新しい店構えのケーキ屋さんの前にやってきた、

ガラスの引き戸を開けて中に入るといつもの店員さんが。

どれにしようかショーケースの中を眺めながら、

気がつくと店員さんに話していた、さっき可愛くて大きな犬と遊ばせてもらったんですよ、と。