記憶

2023年02月26日

二月のある日、父がクルマを買うという。

もう高齢なので

安全装備のついたサポートカーがいいとの兄のアドバイスを受け、

そのようなクルマを探しに父とショールームへ向かった。

ちなみに、現在のクルマは

父に言わせれば後方視界がわるいのが難点だという。

たしかにリアの窓がとても狭い。

同じ車種でそれが改善されていたら買うということになった、

清潔なショールーム、

ディーラーさんに娘ですと挨拶し、

いまのと同じ車種をまず見せてもらう。

視認できる後方視界はとても狭く父のいう欠点は改善されていないようだった。

昔、父もわたしも気に入って乗っていたクルマの兄弟車が

ハイブリッドになっていると父がいっていたのを思い出して、わたしがその車種を見たいというと、

父もそれが見たいといい、お願いして見せてもらうことになった。

すると、後方視界はばっちり。

ただ、わたしが気になったのは前方のグリルの部分、

網目みたいなこまかいハニカムになっていて、それだけが気に入らない。

著しく外観を損なっている気がした。

ディーラーさんに伝えると、これはひとつ前の型で、

現行の型はグリルの形が違っているかもしれないからカタログで確認させてください、とのことだった。

果たして、見せてくれたカタログには

すっきりしたグリルのちょっと吊り目だけれどなかなか美しいクルマが写っていた、

車種はこれにしようと父もわたしも一致をみた。

わたしはその足で

父に乗せてもらって都内のホテルにお泊まりにいく。

道々、高速道路のうえで

わたしと父は議論をたたかわせる、

色についてだ。

わたしはダークグレーがいちばんカッコいいと言い、一方で父は、

明るい色のほうが夜間の視認されやすさでメリットがあるからいいと言う。

そこでわたしがシルバーはどうかというと

父もそうしようかという。

ちなみに、わたしがクルマにうるさいのは主人の影響だ、

いまはもういない主人の与えていった。

彼はクルマ好きで、またクルマのことに詳しく、

BMWのキドニーグリルの役割や、

エンジンオイルを選ぶときの数値の意味だとか、いろいろな知識とクルマの美をおしえてくれた。

それまでわたしはクルマはみな同じに見えていたから格段の進歩だ。

ちょっとだけ不満だった結婚生活だったが、無駄ではなかったのだろう。

ホテルに着いた。

父に礼をいって降り、入り口をくぐるとフロントで手続きをすませ鍵を受けとる。

部屋は、いつもながらクラシックな落ち着く造りだ。

隠れ家のようでもある、

荷物を置いてソファのある部屋を見わたす。

窓辺に近づくと

小鳥がおどろいて飛び立った。

いつの頃からかわたしは

夫がいないせいで、ひとりの楽しみを味わうようになっていた。

部屋にしつらえられた空中庭園には

竹の筒からお手水に

しずくが落ちては、なみなみと張って溢れがちな水面を一瞬かきみだす。

静まった頃にまたしずくが落ちる、

小鳥はのどが渇いていて水が飲みたかったのかもしれない。

わたしは今日は中華料理のフルコースだ、

美味しいものを食べたり、

旅行したり、

そうして自然の写真を撮ったりと、

ひとりの楽しみを見つけることが上手になった自分にいやがおうでも気づかされる。

ふと見上げるとごつごつした幹のうえに楚々とした花が咲いていた。

この梅もいつかは散るだろう、

わたしもいつかはいなくなるだろう、

けれど、花の記憶はわたしのなかにとどまりつづけるかもしれないし、

わたしがこの世界に存在したという証もまた、他者のこころやこの世界のどこかに残ると夢見ていたい。