窓辺の小さなみどり

2024年02月09日

花屋さんにいくと

観葉植物の良いものが揃っていた。

わたしは迷わず

斑入りのドラセナをえらび

それとオリーブをお願いしますと言ったら、

ユーカリですよ、と。恥ずかしい。

水盤にあった

桜の枝を

旅行土産の津軽塗りの花瓶にうつし

ドラセナ、ユーカリ、それから庭からとってきたヒマラヤスギの小枝を

順に活けていった。

それらは旅行先で触れ合った大自然の名残りのようで

なんだか温かく懐かしい。

ユーカリ、

南米に歌に、夢の中でユーカリと話をしていた、という一節があったっけ。

思わず一節を口ずさむ。

アルゼンチンにもユーカリは生えているのかな。

わたしはあらためて最初からその歌を観葉植物に向かってうたう。

激しく悲しい、やるせない歌。

ユーカリと話をしていたのは夢のなか。

現実は暴力にあふれている。

そんな世界からわたしを送り出して、というところで

歌はおわる。

このユーカリの飾られた窓辺はこんなにも穏やかだけれど

ユーカリの自生している地球の裏側では、

理不尽な個人では抗うことのできない暴力なんかが溢れているのだ。

地球の裏側のわたしに

それに対してほんの少しの力しかない。

世界が完全に平等になって平和になることはない、

もし平均的な日本人と同じ暮らしを全世界のひとが望んだとしたら資源が枯渇してしまう。

愛も資源も有限なのだ。

(宇宙も有限なんじゃないか、と貴方はいっていたっけ)

理想を追求しても、どんな高邁な理想でも

現実に移そうとしてしまった瞬間に

不適切な結果になってしまうのはよくあること。

力の均衡によって地球の延命をはかることぐらいしかできない。

でもあの歌のように、この世界から送り出してと訴えはしないでおこう、まだやるべきことがあるから。

ほんのわずかな持てるばかりの力でもって、

数少ない、それでも随分いる友人たちと心の通ったやりとりをして、

そうすることで発信していけたら。

ほんとうに、ささいなことだけれども。

中央にドラセナ、ユーカリを添え、その脇にヒマラヤスギの小枝、

小さなみどりが

数少ない、それでも随分いる友人たちが

わたしを支えてくれるから。